台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業の傘下企業になるシャープの“終戦”を取材した。現場社員からは、“戦犯”である経営陣に対しての怒りの声が上がり、特に「液晶のプリンス」と呼ばれた片山幹雄元社長に批判は集中する。2013年にシャープを辞めた片山氏は、その後、日本電産の顧問に就任。液晶事業で自身の「右腕」だった廣部俊彦氏ら、シャープ時代の“お友達”を日本電産に集めている。

 新天地を見つけた片山氏とは対照的に、雲隠れしているのが片山氏の前の社長、町田勝彦氏である。



 シャープ中興の祖とされる佐伯旭氏の女婿である町田氏は、辣腕営業マンとして頭角を現し、社長の座を射止めた。社長に就任した1998年はまだブラウン管テレビ全盛だったが「国内で販売するテレビを全て液晶にする」と豪語し、「アクオス」の大ヒットでそれを実現した。

三重県の亀山工場で作ったアクオスを「亀山ブランド」で売り出し、一世を風靡したが、攻めに強く守りに弱いタイプの典型で、片山氏とともに身の丈を超えた巨額投資を繰り返し、途方もない借金を残して会社を去った。

 社長時代の町田氏は岳父である佐伯氏の家に住んでいた。しかし妻が病気で亡くなると、すぐに年の離れた後妻を迎え京都に豪邸を構えた。

  2012年にホンハイとの交渉を始めたのは町田氏である。ホンハイのテリー・ゴウ(郭台銘)会長も町田氏のことは信頼しており、香港や台湾で秘密会談をし た仲である。ホンハイの出資が決まり、再び表舞台に出てきてもおかしくないのだが、その町田氏が半年ほど前から姿を消している。

 京都の自宅は人が住んでいる気配がなく、転居先もわからない。かつての部下とはメールをやりとりし、たまに会食もしているようだが、公の場には現れない。「まあ、お金は持っているから不自由はしていないでしょう」(シャープ社員)。古巣で町田氏を心配する者は少ない。
■“ホンハイの下で働くわけにはいかない”

 意外な道を選んだのが元技術担当専務の方志教和(ほうしのりかず)氏。日本電産に移籍した廣部氏と並ぶ半導体・液晶事業のキーパーソンは、シャープのライバル、ジャパンディスプレイ(JDI)に移籍した。

 もともと半導体事業出身で技術に明るく、液晶工場の立ち上げにも関わった。アップル、フォード、中国の携帯電話メーカー、小米(シャオミ)科技などに太いパイプを持つ大物だ。

 高橋社長とそりが合わず、シャープでは閑職に追いやられていた。高橋社長はホンハイの出資完了と同時に退任することが決まっているため、そのタイミングで液晶事業の責任者として復帰するとみられていたが、電撃的にJDIに移籍した。

  ホンハイも方志氏を引き止めたようだが「日本を代表してアジア勢と戦ってきた自分が、ホンハイの下で働くわけにはいかないと、悲壮な覚悟でJDI行きを決 めた」(シャープ関係者)。敗戦続きの電子立国日本で前線に立ち続けた男は一矢報いる覚悟で、あえて業績不振のJDIを選んだのかもしれない。
■「人類の進歩のため」

「そ れぞれの終戦」を迎えたシャープの面々にエールを送る人物がいる。佐々木正氏。シャープがカシオ計算機と電卓戦争を戦った経験を持つ元副社長だ。1915 年生まれで今年101歳になる佐々木氏は、その爆発的な発想力で米国の技術者に「ロケット」と呼ばれた。詳しくは『ロケット・ササキ ジョブズが憧れた伝 説のエンジニア・佐々木正』(大西康之著、新潮社)を参照されたい。

 日本の電子産業の歴史を知り尽くした佐々木氏は言う。

「ビ ジネスですから勝ったり負けたりはつきもの。今はシャープがホンハイの下に入るが、いずれシャープがホンハイを買うこともあるでしょう。シャープの社員に は『負けた』と下を向くのではなく、堂々と胸を張ってホンハイの人たちと協力してほしい。我々、技術者は会社や国のために働くのではない。人類の進歩のた めに働くのです」

 佐々木氏は、企業の壁や国境を越えた「共創」こそが「新しい価値を生む」と説いた。だが佐々木氏が去った後のシャープは利益を独り占めしようとして没落した。大損をさせられた株主は冷めている。

「まあ、もって2、3年やな。ホンハイは取るもん取ったら、シャープなんぞ、とっとと放り出すで」。(1)に登場した初老の株主はそう言い残すと、寂しそうに背中を丸めて株主総会の会場を後にした。