韓国最大の財閥サムスングループは、李秉喆(イ・ビョンチョル、1910年2月12日~87年11月19日)が、38年に韓国・大邱で創業した三星商会(現サムスン物産)に端を発する。李は日本統治時代に早稲田大学政治経済学部で学んだ経験があり、日本とのつながりは深い。李の三男で2代目のサムスングループ会長である李健熙(イ・ゴンヒ、2020年10月25日に逝去)も早稲田大学第一商学部を卒業した後、サムスングループの経営に携わっている。日本の大学で先進の学問を学び、日本企業と組むことで先進技術や経営を学ぼうという思いがあったようだ。  

69年3月24日号の「ダイヤモンド」に、会長時代の李秉喆へのインタビュー記事がある。創業以来、食品や衣服など時代の要請に応じた商品の生産で事業を拡大してきたサムスングループだが、この頃に着目したのが家電や電子部品だった。記事が掲載された2カ月前に、サムスンは三洋電機(現在はパナソニックの子会社)との合弁で三星電子工業を設立している。この三洋電機との合弁が、後に世界を席巻するサムスンのエレクトロニクス産業の始まりとなった。





「日本の電子工業の生産は、確か年60億ドルぐらいでしょう。そのうちから14億ドルも輸出している。韓国の場合は、現在でも5000万ドルぐらいのものです。100分の1以下にしかすぎない。これからが、本当のスタートです。非常に将来性がある」と李は語り、韓国の電子工業の発展に希望を膨らませている。その上で「これからは、国際分業でいかなければならない。特に、韓国と日本は、距離的に近い隣国ですから、お互いの特色を生かして、そこへいかなければならない」と、協力体制の重要性を説く。

 実際、サムスン電子のその後の躍進は周知の通りである。家電から半導体などの電子部品、スマートフォンといったデジタル製品まで、世界最大のメーカーに成長する。その過程では、日本企業が得意としていた半導体や液晶パネル、テレビなど家電製品を分解し、徹底的に解析する「リバースエンジニアリング」や、三洋電機と行ったような合弁会社の設立、あるいは技術者の引き抜きなどの“技術移転”があったことも、よく知られる事実だ。

 そして、日本の電機産業は海外市場でサムスンや新興の中国メーカーに押され、敗走の一途をたどっていった。最初の“先生役”を務めた三洋電機は、09年にパナソニックの子会社となり、強みであった太陽電池・蓄電池はパナソニックに統合され、洗濯機や冷蔵庫などの白物家電は中国ハイアールに売却されるなどで、事実上消滅した。

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