Screenshot 2022-05-30 07.46.38かつて液晶テレビで一世を風靡したシャープ。液晶パネルから最終製品まで自社工場で手掛け完結させる生産方式を「亀山モデル」と自ら銘打ち、垂直統合型と呼ばれた手法は当時の日本のものづくりの手本ともなった。しかし、韓中勢の追い上げでその栄華は長く続かなかった。鴻海精密工業の傘下に入り6年。6月に鴻海から2代目の社長となる呉柏勲(44)のもと、「日台連合」での復活は果たせるのか。

「昔はあの丘からサムスンの連中がよく工場をのぞいていたな」。シャープの液晶テレビ「アクオス」を生産する亀山工場(三重県亀山市)の向かいに小高い丘がある。通称「サムスン・スポット」。液晶テレビの開発・生産に長く携わってきた矢野耕三(75、現在は鴻海精密工業特別顧問)は振り返る。

2004年の同工場の稼働前後から韓国サムスン電子の部隊が双眼鏡を携えてこのサムスン・スポットから工場に入る部材メーカーや装置メーカーの出入りを偵察していたという。「こっちも工場立ち上げに懸命だったが、向こう(=サムスン)も当時追いつこうと必死だったんだろう」(矢野)





今、亀山工場でアクオスはほとんど生産しておらず、パソコンやタブレットといった中小の液晶パネルの製造拠点に変わった。「クリスタルバレー」ともてはやされた往年のにぎわいは過去のものとなった。
「顔のない」会社
「液晶ディスプレーの試作品をじーっと見つめていた町田(勝彦、78)さんの表情は今でも忘れられない」と矢野は言う。当時、専門機関に依頼して実施したブランド浸透度調査でシャープは「顔の見えない会社」と呼ばれていた。当時の主力は半導体部門。家電の世界で王様と呼ばれるテレビ事業では商品力の決め手となるブラウン管をシャープは持っていなかった。

町田は2代目社長の佐伯旭の娘婿ということもあって懇意にしていた販売店も多かった。せっかくテレビの注文を取ってきても生産現場からは「ブラウン管が調達できないので卸せません」との報告が幾度となくあがってきた。矢野は「町田さんは生産現場を突き上げながら、販売店に申し訳ないと、何度も悔しい思いをしたという話をよく聞いた」と振り返る。
Screenshot 2022-05-30 07.59.55それならブラウン管ではなく液晶を自分で作ってテレビを売れるようにしたらいい」。その悔しさをはらすかのように、1998年に町田は社長就任すると「国内で販売するテレビを2005年までに液晶に置き換える」と宣言した。

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