2007年4月。シャープ社長に49歳の片山幹雄が就任した。片山は矢野耕三がテレビ用の小型液晶を開発していた際の部下だった。現場で亀山工場の立ち上げに奔走していた矢野とは対照的に、亀山第1工場が稼働する前の03年に取締役に昇格すると、とんとん拍子で出世していった。
シャープには珍しい東大工学部出身の技術者で、端正な顔立ちと理路整然とした語り口、さらに自信に満ちた「強気」な性格と、4期連続で過去最高益を達成していた当時のシャープの勢いを象徴する人物だった。「亀山工場を通じてシャープの液晶を世界に知らしめた功労者であることは間違いない」と矢野も認める。
その「プリンス・片山」が社長になって最初に手掛けたのが堺工場の建設だ。社長就任から3カ月後の7月末、片山は堺工場の建設を発表した。亀山工場の4倍の敷地に3800億円を投じる計画だ。






液晶コンビナート」構想と名付けた堺工場はカラーフィルターの凸版印刷やガラス大手の米コーニング、旭硝子など部材メーカー、電気・ガス会社など17社が同じ敷地に拠点を構え、電力や工場用水の共同利用、部材の運搬コスト削減などを通じて競争力を一段と高める計画だった。
04年の亀山第1工場の稼働からわずか3年あまりで亀山第2、さらには堺と三つの工場を立て続けに建設することを決めたシャープ。当時の財務責任者で副社長の佐治寛は「堺工場の建設について迷いは一切なかった」と振り返る。液晶の投資競争で韓国勢などが追随する中で「液晶でここまでシャープはのしてきた。この時点で引くことはできなかった」。
懸案となっていた堺工場の稼働率を上げるための策は打った。しかし、まだ課題は残っている。堺工場の生産コストの問題だ。
サムスンや松下電器産業(現・パナソニックホールディングス)などライバルも薄型テレビの増産投資を相次いで打ち出しており、テレビやパネルの価格も急速に下がっていた。激しい投資競争を勝ち抜くためには、さらに採算をあげることが不可欠だが堺では思うようにコスト削減ができなかった。
その要因を矢野は「技術革新のないなかで新工場を建てたからだ」と喝破する。
かつて町田勝彦がブラウン管を供給してもらえず販売店にテレビを届けられなかったその辛酸を、逆に今度はシャープが浴びせることになった。液晶テレビという最終製品だけでなく液晶パネルを供給していくデバイスメーカーとしても立とうとしていたシャープだったが、業界から失格の烙印(らくいん)を早々とおされた。
巨艦・堺工場の空いたラインを埋める重要なパートナーを逸し、亀山のコピー工場の堺ディスプレイプロダクト(SDP)は以後稼働率の低下に悩まされ続ける。
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