佐々木はRCAから帰国後,部下に対して液晶の開発状況を説明しました。
巨大企業RCAでも手こずっており暗中模索の状態であることに、皆尻込みしました。
しかし技術者の一人、和田富夫(のちのシャープ事業部長)はどうしても液晶の開発を諦めきれなかったため、佐々木に「なんとしてでも液晶を実用化したいので,自分に研究させて欲しい」と申し出たのでした。
言うほうも聞くほうも真剣勝負、佐々木はこれを即座に了承し,和田に研究許可を与えると共に,RCA社のボンダシュミットに,シャープが独自で液晶ディスプレイの開発をすることを伝えて彼の了解を取ったのでした。

了承を受けた和田は先ずなにはともあれ液晶材料を入手しようとしました。
しかし調べてみると、国内では液晶材料は手に入らないということが分かったのでした。



調査範囲を世界に広げて調べてみると,米国の会社で販売されていると判り早速注文したのです。
ILIXCO(インターナショナル・リキッド・クリスタル)社という会社で,液晶材料は1gなんと12,000円だったのです。
今でも高価ですが当時(1970年)の物価で考えるととんでもない価格。それもはるばる米国から輸入して大事に扱う必要があります。そんな前提で液晶の研究開発がシャープの中で始まったのでした。

ゼロからのスタートで試行錯誤の研究活動でした。
特性と寿命の両立の壁にぶち当たっていて、両方を解決するのが求められていました。

他の有力メーカーも似たような状況で、解決策が見いだせずたまらず「LCDの研究中止」のニュースも入りだしました。
さらに驚いたことに一番の大先輩のRCA社ですら研究チームが解散されたとの情報も入ってきたのでした。
さすがにシャープに於いても動揺が広がります。金食い虫で解があるのかどうかもわからずに研究を続けるのか、中止するのか、判断を迫られました。