当時はようやく電卓が発売され始めたのですが、今とは比べ物にならずお店のレジほどの大きさが最初の電卓、次の改良モデルも弁当箱よりももっと大きな代物で机に鎮座するような代物でした。
当時シャープの社長だった佐伯旭(シャープ元社長)は開発陣に、「八百屋さんが算盤に代えて店先で使える携帯型の計算機をつくれ」という指示が開発に出されていたようですが、まだまだ道のりは遠いように思えました。

そこには二つのブレークスルーが必要でした。ひとつは演算素子。こちらは半導体の世界でCMOS-LSIの開発の目処が立ったことで消費電力が大幅に下がり小型化の可能性が見えてきました。
もう一つは表示素子。こちらは最初プラズマディスプレイの元祖とも言えるニキシー管が採用されていたのですが、蛍光表示管が確立され、そちらに移っていきました。
しかし消費電力はまだまだ大きく小型化の阻害要因でした。更なる低消費電力のディスプレィが待望されていました。

一方でアメリカも、小型軽量・低消費電力・高信頼性長寿命化を狙った新規ディスプレイ・デバイスの開発に高額の研究開発資金を米国政府が投入していたのですが、目的は電卓といった小市民向けの商品ではなく、米・ソ冷戦での軍事競争の下で人工衛星やミサイル用を狙っていたというのも対照的で面白いものです。

さて、シャープの液晶研究の実験室。手さぐり状態の彼らはRCA社のやり方に従って液晶材料に直流電圧を印加して実験をしていました。




しかし,どの液晶材料でも電気化学反応によって短時間の動作のあと,すぐダメになってしまいます。
液晶ディスプレイの動作寿命を延ばすために,液晶材料の純度を高めては直流電圧を印加するという実験の繰り返しでした。
そんな1971年11月のある日,グループ内の新人研究員だった船田文明は,実験に手間取り前の晩遅くに帰った翌朝、液晶材料の入ったビンの蓋を閉め忘れていたことに気付いたのでした。
「しまった。空気中の水分で貴重な液晶化合物が分解したかもしれない」という思いが直ぐに船田の胸をよぎったのでした。
液晶ディスプレイの動作寿命を延ばすためには,液晶の純度を上げることが至上命令であった状況下で,不純物の入った可能性のある液晶材料はもう使えない。高価な液晶材料を無駄にしたことになるという大失態をおかしてしまったのでした。