
戴正呉は1951年年生まれの現在65歳。台湾北東部の宜蘭県に実家を持つ本省人(台湾島内に祖先のルーツを持つ台湾人)である。青年時代は当時の台湾の最大手家電メーカー「大同(TATUNG)」傘下の私立大学・大同工学院化学エンジニア学部で学び、卒業後はそのまま大同に幹部候補生として就職した。
戴正呉の入社当時の鴻海は、経営が軌道に乗ってまだ数年しか経っていない時期だ。成長株として投資家の注目を集めてはいたものの、売上高は10億円程度で従業員数も300人足らず、台湾の製造業ランキング1000社にやっとランクインできたばかりの中小部品メーカーに過ぎなかった。国際展開も皆無に等しかった時期である。
1980年代当時、郭台銘は経済の絶頂期を迎えつつあった日本の企業(特に松下電器産業)を自社の手本にしていたとされ、1986年から社内に「対日業務グループ」なる組織を作らせ、積極的に日本人顧問を招聘していた。また、1988年からは自社の生産ラインにトヨタ式生産方式の5S運動を採用している。
同記事は、「1日16時間働く」郭台銘に対して、常に郭よりも1時間早く出勤する戴正呉は「1日17時間以上働く」男だと述べる。鴻海の最高幹部会議は毎日朝8時から始まるが、戴正呉はその1時間以上前に自身が統括する事業グループの早朝ミーティングを開くのが常であり、こうした勤務姿勢は30年あまりにわたり変わっていないそうだ。Move to full article
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