液晶パネル事業から撤退することになったパナソニック。2021年をめどに姫路工場(兵庫県姫路市)での生産を終了する。液晶パネル事業は価格競争の激化で、16年に主力だったテレビ向けの生産を終了し、車載・産業向けで活路を見いだそうとしていた。ただ、中国メーカーの台頭により市場競争は激化し、目標だった19年度中の黒字化も達成できない見込みで、撤退を決断した。

PLDの前身は05年に日立製作所、松下電器産業(現パナソニック)、東芝などが出資したIPSアルファテクノロジ姫路工場は10年に液晶パネルの生産を始めた

 他にもパネル生産拠点は複数あったが、12年に茂原工場(千葉県茂原市)をジャパンディスプレイ(JDI)に売却するなどし、姫路に拠点を集約させた。パナソニックの姫路工場では、19年度から角形の車載電池も生産している。





 平成の30年は、電機王国が落日した30年だった。家電や半導体で世界をけん引した日本の電機産業が追われる立場から追う立場に変わった30年でもあった。

 2000年代初頭に日本の製造業が円高で苦しむ中、「3S」ともてはやされたのがソニー、シャープ、三洋電機だ。そのうち、2社が今は他社の傘下に入っている。

 シャープは00年代前半から半ばにかけて「亀山ブランド」の液晶パネルで世界を先導した。しかし09年に堺市に完成させた巨大工場があだとなり、台湾の鴻海精密工業の軍門に降った。

 三洋は、高度成長期の家電販売増を追い風に順調に成長。バブル崩壊後も電池事業が評価され、01年3月期には過去最高の営業利益を計上した。だが、04年の新潟県中越地震で半導体事業が打撃を受け、業績が悪化。デジタル化対応の遅れなどもあり、11年にパナソニックの子会社となった。


 電機業界では平成中期に「選択と集中」がもてはやされた。シャープ、三洋はその象徴だった。平成末期に不適切会計で経営が揺らいだ東芝も「半導体メモリーと原子力」に経営資源を集中。そのビジネスモデルの評価が高かったが、現在は「中堅電機メーカー」に転落しかけている。

 一方、収益改善に成功した企業もある。ソニーはリーマン・ショック直後の09年3月期から12年3月期まで4期連続で最終赤字。人員削減や資産売却、テレビ事業の分社化やパソコンブランド「VAIO」売却を立て続けに敢行。本業のエレクトロニクス部門も16年3月期に黒字転換した。家電からゲームや半導体に軸を移し、18年3月期は過去最高益を叩き出した。

 日立は09年3月期に7873億円という製造業として史上最大の当期赤字を計上した。子会社から社長に呼び戻された川村隆氏(現東京電力ホールディングス会長)は、それまで「君臨すれど統治せず」とも言われた日立本体に企業統治(ガバナンス)の思想を持ち込んだ。日立マクセル、日立プラントテクノロジーなど上場5社を取り込み、現在も積極的に事業の入れ替えを進めており、悲願の営業利益率10%を視野に入れる。

 今後、日立の「稼ぐ力」でカギになるのはIoT(モノのインターネット)分野だが、独シーメンスが先を行く。現場の機器のデータを吸い上げ、分析し、生産効率化につなげられる市場は大きく広がる。だが、米ゼネラル・エレクトリック(GE)が失敗したように、産業機器は種類が多く、構成が複雑なためデファクトスタンダードを握るのは難しい分野だ。

 パナソニックも力を入れてきた車載電池事業が低収益に苦しみ、トヨタ自動車に頼る道を選んだ。米国の巨大プラットフォーマー「GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)」はサイバー空間だけでなく、自動運転や産業用途などリアルな領域に事業を広げつつある。戦いたい市場でなく、勝てるところで戦うしたたかさこそが日本の「電機復権」のカギを握る。

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