
一時代を築いた-。東芝姫路工場(兵庫県姫路市余部区上余部)を知る誰もが口をそろえる。蛍光灯やブラウン管、半導体など、暮らしに欠かせない製品を時代に先駆けて送り出す拠点だった。
現場を支えたのは、地元や集団就職の若者たち。工場で技術を学び、職場結婚をして地域に根を張った人が多い。
東芝姫路の操業が停止して10年が過ぎた今も、従業員や取引先として工場と歩んだ住民の胸には、往時の姿が色あせずに残る。その1人、元製造長の男性は、幻の液晶工場構想を昨日のことのように語り始めた。

「新工場の青写真を見たときは、これで余部も安泰や-と思いましたよ」東芝姫路のすぐそばに住む元製造長、山田正典さん(77)によると、当時、元号は平成に変わっていた。図面には、敷地いっぱいに巨大な建屋が描かれ、内部は全面クリーンルーム。新たな経営の柱に、と期待された液晶の最新鋭工場を建設する計画だったという。
Read Full article山田さんは、製造長として液晶を担当。東芝姫路の分工場から独立した姫路半導体工場(太子町)の一角に試作ラインを置いて開発が進んでいた。「私もガラスメーカーと組んで60インチの試作にあたった」構想は青写真通りに進まなかった。阪神・淡路大震災の影響で「姫路だけでなく、埼玉の深谷などにも分散させ、災害リスクを減らすことになった」
【連載一覧】
(上)関東の名門が描いた大構想
(下)太子で培った半導体技術
Comment
コメントする