〝素材の会社〟AGCが、7月から総合職の月例賃金を一挙に3万円以上引き上げた。2023年春に入社する新卒の初任給は4年制大学卒の場合、従来の23万736円が26万942円になる。ボーナスではなく月例賃金を上げることは継続的なコスト増にもなる。大幅な引き上げができるのは、単純に足元の業績が好調だからというわけではない。賃金見直しの裏側を探った。

 AGCの労使交渉は、一般的な春闘より少し遅い5月に行われる。2022年の交渉で組合側が求めていたのは、月例賃金2%のベースアップ、5%の賞与アップ、転勤転居に伴う手当の引き上げなどだったという。

 会社側はこれらに応えたうえで、総合職の月例賃金を一律2万5000円増やす賃金改善も提案した。これが、トータルで3万円以上アップの主因になった。同社では新卒の総合職は11年目ごろに役職付きに昇格するケースが多く、総合職は10年目付近の33歳前後までという。会社主導で、若手の待遇を手厚くしたことになる。





 総合職の大幅昇給に押し上げられる形で、技能職や事務職も含めた組合員平均の月例賃金は6.09%アップする。AGCにとって、これだけの大幅な賃上げは、1990年以来、32年ぶりになる。

■「人材獲得戦略」をシフトチェンジ

 賃金改善の目的はなにか。人事部人事グループマネージャーの松永将典氏は「採用競争力を高めたかった」と説明する。

 2018年に旭硝子から社名を変えたAGCは、ポートフォリオ変革を急ぐ。それに伴う、採用の競合相手の変化に対応する必要に迫られてもいる。AGCは一昔前のガラスや窯業・土石事業中心から脱する一方、エレクトロニクス、ライフサイエンス、モビリティなどを重点強化する戦略事業に位置付ける。

 ガラスは製造窯に巨額の費用が掛かる装置産業で、固定費の割合が高い。そのため、生産量を維持できなければ一気に採算が厳しくなる。特に自動車用はここ数年、新型コロナや半導体不足の影響による需要減に苦しむ。低採算にあえぐガラス事業の改善は急務で、2023年末までにベルギーとドイツの自動車向け工場を段階的に閉鎖するなどの構造改革を図る。

 他方で、市場に成長性があり、安定性も期待できる半導体関連などのエレクトロニクスや医薬関連などのライフサイエンスといった戦略事業に投資を回す方向に舵を切っている。

人材獲得戦略のシフトチェンジも必然だった。松永氏は「戦略事業の業界で競合する企業の賃金水準のデータを分析して比較すると、当社は見劣りしていた。ギャップを埋める必要があった」と語る。その結果として、ベアと合わせて月例賃金3万円以上の引き上げを決めた。

 AGCは前年の2021年にも総合職の月例賃金を一律で1万円増やす賃金改善を実施している。この2年で、総合職の月例賃金を4万円も高くしたことになる。

 とはいえ、業績の好不調に合わせて調整しやすい賞与と違い、月例賃金は一度上げると、業績が暗転しても下げることは困難だ。それでもAGCが異例の月例賃金の大幅アップに踏み切ったのには、他にも理由がある。

■市場変わる化学品が好業績を牽引

 直近の業績は非常に好調だ。2021年12月期の営業利益は、前年度比2.7倍の2061億円。2000億円の大台を突破するのは、過去最高益の2010年12月期(2292億円)以来、11年ぶりだ。

 2022年12月期も快走が続く。AGCが8月2日に発表した上半期の実績は、営業利益が前年同期比21.1%増の1153億円で、過去最高だった。通期の業績予想も上方修正し、営業利益は過去最高を更新する2300億円を計画する。

 AGCの営業利益は、ここ数年よくても1200億円前後だった。それが2021年12月期から営業利益の水準が一気に跳ね上がった状態だ。牽引役は、同期から急伸した化学品だ。東南アジアでそれぞれ50%超のシェアを持つ、苛性ソーダや塩化ビニル樹脂の市況が急上昇していることが、業績を大きく押し上げている。

 ただし、市況は需要の伸縮に加えて、競合相手の供給量にも大きく左右される。一般的にはみずもの的な要素があるが、AGCは足元の好業績をフロック(たまたま)ではないと考えている。その根拠は、市況が上がった要因にある。

 東南アジアでは以前まで、中国企業が製造した苛性ソーダや塩ビ樹脂が市場に流入していた。AGCが「電解法」という製造方法で生産するのに対し、中国企業は、石炭を使い温室効果ガスを多く排出する「カーバイド法」と呼ばれる製造方法を主に採る。

 だが、世界的に温暖化問題が大きくクローズアップされるようになり、中国政府も国内での対応に乗り出さざるを得なくなった。中国政府は2021年前半までに環境規制を強化し、カーバイド法による製造には制約がかかるようになった。これによって中国企業からの東南アジア市場への苛性ソーダや塩ビ樹脂の流入が止まり、需給が引き締まったことで、市況が急騰した。

 こうした事情から、AGCは事業環境が恒常的に変わったと読む。上半期の決算会見でも平井良典社長は、「これからも一定の市況変動はあるが、以前の水準には戻らず高水準が継続するとみている。非常に強固な高収益基盤を確立してきている」と述べた。足元の市況が出来過ぎで多少の軟化はあるにしても、来期以降も大崩れはないという分析だ。

 松永氏は「賃上げは、業績の支えがなければできない。昨年の実績が一過性のものではなく、好業績がこれからも続いていくという自信の裏打ちがあってこそのものだ」と語る。

■株価アップへの努力が必要

 ただ、AGCの中長期的な業績への自信や、人材投資の強化に対し、市場評価は十分についてきてはいない。株価は昨年度から上昇しているものの、PBR(株価純資産倍率)は解散価値の1倍を大きく割り込み、0.7倍台で推移する。

 平井社長は、「現時点での株式市場からの評価には満足していない。現在のレベルの業績を安定的に出していくとともに、株式市場に対して当社の戦略を丁寧に説明していく必要があると感じている」と話す。

 不可逆的な人件費アップとなる総合職の賃金の大幅な引き上げは、AGCの自信が決して上辺の言葉だけではない、行動が伴った自社評価の表れも見て取れる。それだけに、競合企業との賃金ギャップを埋めた後は、他社評価(市場評価)とのギャップを埋めていく努力が求められる。

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