panasonic china今年は日中国交回復50周年。半世紀の歴史で、中国に進出した日本企業の「モデルケース」と評価されるのが1987年9月に発足した「北京・松下彩色顕像管(BMCC)」だ。松下電器産業(現パナソニックホールディングス)と中国側が折半出資したカラーブラウン管製造会社である。

 80年時点で中国のカラーテレビ生産は年間約3万2000台。顕在化しつつある巨大な需要を満たすには到底及ばぬ水準だった。しかも基幹部品のカラーブラウン管は中国国内に生産ラインがなかった。82年には日本企業が協力したカラーブラウン管工場が稼働したがなおも足りない。BMCCは十分な量のカラーブラウン管を供給し、カラーテレビ生産のボトルネックを解消するための合弁会社だった。





panasonic china 1早い段階から中国側はテレビ産業の育成を考えていた。77年に来日した柴樹藩対外貿易部副部長は松下電器を訪問し、「カラーブラウン管および周辺部品の技術導入がぜひ必要」と述べた。翌78年の10月28日午前、松下電器は社用箋に手書きした4枚つづりのプレスリリースをコピーし、緊急配布した。「日中平和友好条約批准書交換のため政府公賓として来日中の中華人民共和国、鄧小平副首相ご夫妻が本日、午後、随員・記者団約80名とともに当社テレビ事業部(大阪府茨木市)を視察されます」とあった。

普段ならタイプ室が事前に和文タイプライターで作成した活字打ちのリリースを配るところだが、「セキュリティー面の配慮から当日朝に手書きしたのではないか」とパナソニックのコーポレート広報センター。

同日夕、松下電器茨木工場のテレビ事業部を鄧小平副首相(当時)が訪れた。応対した松下幸之助相談役に、鄧氏は「中国の電子工業の近代化を手伝ってくれませんか」と要請した。幸之助氏は「21世紀は日本や中国などアジアの繁栄の時代。大きな視野で中国の近代化に協力しましょう」と即座に応じた。

色紙に「中日友好前程似錦(中日友好の前途は錦のように明るい)」と揮毫(きごう)した鄧氏は「技術面で援助をお願いしたい」と述べ、幸之助氏は「なんぼでもお手伝いします」と答えた。翌29日付の日本経済新聞朝刊は「電子レンジで温めたシューマイを鄧氏が『うまい、うまい』と言って食べる一幕もあった」と和やかな雰囲気を伝えた。

幸之助氏は79年と80年に訪中し、山下俊彦社長(当時)はその後の調整に奔走した。87年5月、北京での合弁契約調印式には山下氏の後任である谷井昭雄社長(同)が臨んだ。松下流の「人づくり」が始まった。BMCCの第1期生産ラインで働く250人は日本で半年~1年の研修を受けた。近畿大学の大内秀二郎准教授は「最先端の人材を育成し、中国における電子産業の基礎を築いた」と語る。

第1号の完成品が出来上がったのは89年6月3日、天安門事件の前日だった。幸之助氏は1カ月半前に亡くなっていたが、BMCCは遺志を引き継いで操業を続け、89年に330万本だったカラーブラウン管の年産能力が98年には820万本まで増えた。

時を経て、テレビの主流はブラウン管から薄型の液晶などに移行した。2009年、パナソニックHDはBMCCの株式50%すべてを合弁相手に譲渡。その後、鄧氏が足を運んだ茨木工場は操業を停止した。14年に用地を取得した大和ハウス工業は巨大な物流倉庫を建て、ヤマトホールディングスとアマゾンジャパンが賃貸で利用している。

環境は一変したが、敢然と中国に打って出た幸之助氏の決断は今なお輝きを放つ。18年12月、中国共産党は改革開放40周年の記念式典を開き、中国に貢献した10人の外国人を表彰した。そのうちの1人が幸之助氏。式典には孫の松下正幸パナソニックHD特別顧問が出席した。現在、中国におけるパナソニックHDグループの法人は約60あり、約5万人の従業員が働く。幸之助氏が「なんぼでもお手伝い」した成果である。

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