
80年時点で中国のカラーテレビ生産は年間約3万2000台。顕在化しつつある巨大な需要を満たすには到底及ばぬ水準だった。しかも基幹部品のカラーブラウン管は中国国内に生産ラインがなかった。82年には日本企業が協力したカラーブラウン管工場が稼働したがなおも足りない。BMCCは十分な量のカラーブラウン管を供給し、カラーテレビ生産のボトルネックを解消するための合弁会社だった。

普段ならタイプ室が事前に和文タイプライターで作成した活字打ちのリリースを配るところだが、「セキュリティー面の配慮から当日朝に手書きしたのではないか」とパナソニックのコーポレート広報センター。
同日夕、松下電器茨木工場のテレビ事業部を鄧小平副首相(当時)が訪れた。応対した松下幸之助相談役に、鄧氏は「中国の電子工業の近代化を手伝ってくれませんか」と要請した。幸之助氏は「21世紀は日本や中国などアジアの繁栄の時代。大きな視野で中国の近代化に協力しましょう」と即座に応じた。
色紙に「中日友好前程似錦(中日友好の前途は錦のように明るい)」と揮毫(きごう)した鄧氏は「技術面で援助をお願いしたい」と述べ、幸之助氏は「なんぼでもお手伝いします」と答えた。翌29日付の日本経済新聞朝刊は「電子レンジで温めたシューマイを鄧氏が『うまい、うまい』と言って食べる一幕もあった」と和やかな雰囲気を伝えた。
幸之助氏は79年と80年に訪中し、山下俊彦社長(当時)はその後の調整に奔走した。87年5月、北京での合弁契約調印式には山下氏の後任である谷井昭雄社長(同)が臨んだ。松下流の「人づくり」が始まった。BMCCの第1期生産ラインで働く250人は日本で半年~1年の研修を受けた。近畿大学の大内秀二郎准教授は「最先端の人材を育成し、中国における電子産業の基礎を築いた」と語る。
第1号の完成品が出来上がったのは89年6月3日、天安門事件の前日だった。幸之助氏は1カ月半前に亡くなっていたが、BMCCは遺志を引き継いで操業を続け、89年に330万本だったカラーブラウン管の年産能力が98年には820万本まで増えた。
時を経て、テレビの主流はブラウン管から薄型の液晶などに移行した。2009年、パナソニックHDはBMCCの株式50%すべてを合弁相手に譲渡。その後、鄧氏が足を運んだ茨木工場は操業を停止した。14年に用地を取得した大和ハウス工業は巨大な物流倉庫を建て、ヤマトホールディングスとアマゾンジャパンが賃貸で利用している。
環境は一変したが、敢然と中国に打って出た幸之助氏の決断は今なお輝きを放つ。18年12月、中国共産党は改革開放40周年の記念式典を開き、中国に貢献した10人の外国人を表彰した。そのうちの1人が幸之助氏。式典には孫の松下正幸パナソニックHD特別顧問が出席した。現在、中国におけるパナソニックHDグループの法人は約60あり、約5万人の従業員が働く。幸之助氏が「なんぼでもお手伝い」した成果である。
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