シャープが液晶ディスプレー事業を巡り、決断を迫られている。3月、堺市の液晶パネル工場を所有・運営する完全子会社「堺ディスプレイプロダクト(SDP)」に関し「生産停止を視野」と一部で報道されたが、同社広報は「業績回復に向けあらゆる可能性を検討しており、現時点で決定したものはない」と説明する。
ただ、関係者は「赤字が続く状況は変わらず、電気代の負担も大きい。止血は急がなくてはいけない」と打ち明け、5月にも発表する中期経営計画に何らかの方針を盛り込むとみられる。
同社にとって液晶ディスプレー事業は特別な意味がある。昭和48年に液晶表示電卓を発売し、世界に先駆けて液晶技術を実用化。量産化にも成功し、ノートパソコンやビデオカメラなどから採用が広がり、テレビに搭載されてブラウン管に代わるディスプレーに進化させた。
ただ、関係者は「赤字が続く状況は変わらず、電気代の負担も大きい。止血は急がなくてはいけない」と打ち明け、5月にも発表する中期経営計画に何らかの方針を盛り込むとみられる。
同社にとって液晶ディスプレー事業は特別な意味がある。昭和48年に液晶表示電卓を発売し、世界に先駆けて液晶技術を実用化。量産化にも成功し、ノートパソコンやビデオカメラなどから採用が広がり、テレビに搭載されてブラウン管に代わるディスプレーに進化させた。
平成10年、町田勝彦社長(当時)は「21世紀には国内でブラウン管を液晶テレビにすべて置き換える」と宣言。16年に液晶パネルの亀山工場が稼働すると「亀山モデル」の液晶テレビは爆発的にヒット。「液晶のシャープ」として家電の勝ち組になった。同社OBは「シャープはブラウン管を自社生産できずにテレビに他社製を搭載してきた1・5流企業のコンプレックスを液晶の成功体験ではねかえした」と語る。
同社は19年、堺市に世界最大級の生産能力を誇る液晶パネル工場の建設を発表し、計4300億円を投じて世界市場でのシェア拡大を目指した。振り返るとここが同社の絶頂期だった。堺工場が21年に稼働したときには前年のリーマン・ショック後の世界的な景気減速で需要が激減、大量の在庫を積み上げたからだ。
世界市場を巡っては、当時の円高ウォン安の局面が逆風となり、韓国メーカーとの価格競争に敗北。町田氏は「行き過ぎた円高が原因で苦境に陥った」と肩を落とした。同社OBは「売上高3兆円を超え、大手家電と肩を並べたことで規模拡大を続けなければ生き残れない競争に巻き込まれ、これまで〝身の丈〟にあった経営を徹し、規模は追わないという信条を捨てた過剰投資の先に経営危機が待っていた」と解説する。
液晶への巨額投資が巨額赤字を招き、同社は経営危機に陥った。
大規模投資を続けなければ競争に生き残れないうえ、業績の変動が激しい液晶事業は経営に重くのしかかり、本体から切り離すことが検討された。主力取引銀行に経営再建の覚悟を示すため本社まで売却したが、売上高の3分の1を占めていた液晶事業を切る決断ができなかった。
戦犯とされたSDPは24年、鴻海精密工業創業者、郭台銘(テリー・ゴウ)氏の資産管理会社が約半数の株式を取得し、ようやく本体から切り離された。それでも経営危機は深刻度を増し、28年にはシャープ本体も身売りを余儀なくされ、鴻海の傘下入りした。
鴻海の傘下入りしたシャープは、その徹底した合理化とコストカットにより30年3月期連結決算では4年ぶりに最終黒字に転換して回復軌道へ。ところが経営再建は令和4年6月に「需要の拡大が見込める」とSDPを買い戻し、再び完全子会社にしたことで歯車に狂いが生じた。相前後して液晶パネル価格が急激に下落し、5年3月期連結決算で約2600億円の最終赤字を計上してしまった。
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