シャープの液晶パネル生産の旗艦である堺工場(堺市)がお盆明けの21日に稼働停止し、同社はテレビ向け大型パネルの生産から撤退した。2000年代半ばまではサムスン電子など韓国メーカーと世界首位を競い合ったが、液晶への過剰投資が経営の足を引っ張った。創業者の早川徳次氏から受け継がれた「身の丈経営」は、液晶テレビ時代を切り開いた成功体験の中で忘れ去られた。
「いたずらに規模のみを追わず、誠意と独自の技術をもって、広く世界の文化と福祉の向上に貢献する」――。創業者の考え方のもと、2代目社長の佐伯旭氏が1973年に定めた経営理念はこう始まる。
シャープはかつて「1.5流」などと揶揄(やゆ)されることもあったが、液晶テレビ「アクオス」の成功で日本を代表する電機メーカーの一社に躍り出た。しかし、それも長くは続かなかった。4300億円を投じた堺工場の稼働率低下などで巨額の赤字を計上。2016年3月期の連結決算で債務超過に陥り、台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業傘下に入った。
エスカレートした巨額投資
09年10月稼働の堺工場はその時点で世界最大だった「第10世代」と呼ばれる巨大なガラス基板(2880×3130ミリメートル)を採用した。液晶パネルの生産ラインは投入したガラス基板を切断してパネルに仕上げる。畳5畳分もの大きさのガラス基板を扱う最新鋭工場を実現するには高度な生産技術が必要で投資額も膨らむ。しかし、基板1枚から取り出せるパネルの枚数やサイズが大きくなれば、それだけ生産効率が高まり、ライバルメーカーより優位に立てる。
当時、「サムスンは奇数、シャープは偶数」という言葉があった。第6世代のシャープ亀山第1工場(三重県亀山市)に対し、サムスンとソニーの合弁は第7世代を稼働。シャープは第8世代の亀山第2工場(同)で受けて立つ。世界2強を中心に巨額投資がどんどんエスカレートしていった。
「ほんまに買ってくれるところがあるんか?」――。06年、専務だった片山幹雄氏(07年に社長に就任)が社内で堺工場の計画を表明した際、町田勝彦社長は慎重姿勢を示したという。東芝への外販のほか、ソニーからは安定供給の見返りに堺工場への出資も取り付け、部材メーカーを含めた液晶パネルの一大生産拠点にする「液晶コンビナート」構想がやっと動き出した。
自社テレビに優先供給の失態
09年の液晶テレビ販売は、政府の「エコポイント」制度による需要喚起や地上デジタルへの移行による特需で好調に推移。同年10月に稼働した堺工場は増産を3カ月前倒しで実施するほど快調な滑り出しをする。しかし、ここでシャープは失態を犯す。
需給が逼迫する中、自社製テレビに向けたパネル供給を優先。商機を逸したソニーや東芝の不満が爆発した。この時、シャープがデバイスメーカーの役割に徹していれば、在庫が積み上がり始めた10年夏以降も各社が協調して稼働率低下を抑え、堺工場は延命できた可能性がある。結局、ソニーは追加出資を見送り、12年には共同出資を解消した。
シャープは2012年3月期に3760億円もの連結最終赤字を計上。創業100年の節目に国内従業員の約1割にあたる2960人の希望退職を実施した。想定人数の1.5倍に達し、多くの人材が流出した。
それまでのシャープには「二度と人員整理をしない」という不文律があった。過去一度きりのリストラはドッジ不況を受けた1950年のこと。町田氏の著作によると、創業者の早川氏は「社員のクビを切ってまで会社を存続させられない。社長を辞し、会社は解散する」と言い出したという。創業者の思いを知り、労働組合が自主退職を募り、会社を守った経緯がある。
2000年代前半までのシャープの隆盛を知る元社員は「待遇面ではソニーやパナソニックにかなわなかったが、シャープには自由闊達に研究・開発をやらせてくれる雰囲気があった」と話す。度重なるリストラはこうした企業風土も崩壊させかねない。
失われた「他社の先を行く」企業風土
シャープは米電気電子学会(IEEE)から技術分野の歴史的な業績をたたえる「IEEEマイルストーン」に3つの製品が選ばれている。電卓、太陽電池、14インチの液晶ディスプレーで、日本企業が3度も受賞するのは異例だ。ファインダーの代わりに液晶ディスプレーを見ながら撮影できるビデオカメラ「液晶ビューカム」、カメラ付き携帯電話、左右開き冷蔵庫など世界初、業界初の製品は枚挙にいとまがない。
「他社にまねされる商品をつくれ」。創業者の早川氏が残した最も有名な言葉だ。ブランド力では及ばなくても、画期的な技術・製品で存在感を示す。それこそがシャープのDNAだった。
その言葉の裏には他社が追随してきた時には、さらにその先を行く別の製品に挑戦すべしという意味も含まれていたはずだ。この十数年間、同業他社は競合の少ない「ブルーオーシャン」を探して事業の入れ替えに取り組んできた。一方、シャープはトップ自らが「液晶の次も液晶」と発言するなど自社の技術力に慢心し、変革の努力を怠った。韓台との投資競争激化に加え、10年代以降はパネル製造技術の標準化が進む中、政府の後ろ盾で工場新設を進めた中国勢にシェアを奪われた。
6月に新社長に就任した沖津雅浩氏は最もなし遂げたいこととして、「シャープらしさを取り戻す」ことを挙げる。そうだとすれば、まずは創業の精神に立ち返るべきだろう。
※記事の出典元はツイッターで確認できます⇒コチラ
※記事の出典元はツイッターで確認できます⇒コチラ
Comment
コメントする