免疫学の常識を破る大発見は医師夫婦の二人三脚で生まれた。ノーベル生理学・医学賞を受賞した坂口志文さん(74)の妻、教子(のりこ)さん(71)は約30年間にわたって同分野で活躍し、支えあってきた。今も同じ研究室で活動している。出会いは偶然だった。坂口さんは昭和52年、愛知県がんセンター研究所で免疫学の研究を始めた。夏休みに研究室の見学会が開かれたとき、名古屋市立大の医学生だった教子さんがたまたま訪れたのが縁だ。
坂口さんの第一印象は「まじめそうな人」。服装や髪形も質素で、華やかな雰囲気はなかった。だが研究中に見せるギラギラした目は、明らかに他の医師と違っていた。「こんなにハングリーな人がいるのかと思った。いろんな意味で新鮮だった」と教子さん。2人の距離は近づいた。
結婚後の平成2年、教子さんは新天地を求める夫とともに渡米。「新しい場所に行くことは大好き。何の抵抗もなかった」

米国では実験の手ほどきを受けながら助手として一緒に研究に取り組み、未知の世界をのぞき込む楽しさに魅了された。坂口さんの受賞対象となった制御性T細胞の研究でも、多くの論文で共著者になっている。
渡米当初は、免疫を抑える細胞など存在しないという考え方が学界の主流だった「逆風の時代」。研究チームもごく少数だった。
坂口さんは「家内と2人でやっていたようなもの。実験動物の世話や細胞の解析など、よくやってくれました」と感謝を口にする。教子さんも「私たちは正しいことをしているんだという強い信念。この気持ちを捨てることは一度もなかった」と明かす。
帰国後も研究生活をともにした。世界トップクラスの成果しか載せない英科学誌ネイチャーに掲載された15年の論文では教子さんが筆頭著者に。一流研究者の仲間入りを果たしたが、本人は「まだまだです」と控えめだ。現在は坂口さんが創設したベンチャー企業で、制御性T細胞を使った細胞療法の実用化を目指している。
制御性T細胞の研究はいまや飛躍的な発展を遂げ、坂口研究室(ラボ)は計約30人の大所帯に。明るい性格の教子さんは「ラボママ」(坂口さん)として、多くの学生から慕われている。
京都市内の自宅で2人暮らし。暇を見つけては鴨川のほとりを散策し、安らぎの時間を過ごす。
ノーベル生理学・医学賞を受賞した坂口志文さん(74)が生まれたのは滋賀県びわ村(現長浜市)。琵琶湖に流れ込む姉川の近くで豊かな自然に囲まれ、伸び伸びと育った。琵琶湖畔までは自転車で15分程度で、よく遊びに行った。
理系も文系も好成績
3人兄弟の真ん中で、父親は高校教師。中学時代は美術部に所属し、絵描きになるのが夢だった。文学全集を読みふけるなど、理系も文系も満遍なく好成績の優等生。母親の家系は医師が多く、理系を勧められ京都大医学部に進学した。
研究者として多くの機関を渡り歩いてきた。医学部で病理学教室に所属し、大学院に進学。そのころ自己免疫疾患に興味を持ち、大学院を中退し愛知県がんセンターの研究生になった。
思い切った転身だが「当時は学園紛争が終わって、次の秩序が定まっていない時代。別のことを始めるのに抵抗はなかった。本当に興味を持てることを探していた。自分探しをしていたのでしょう」
京大に戻った後、米国に留学。スタンフォード大、カリフォルニア大など4つの研究所を転々とした。帰国後は2つの機関を経て平成11年、京大再生医科学研究所の教授に。ここで初めて、10年以上にわたって腰を落ち着けた。

「鈍感」も武器に
「どちらかというと鈍感なタイプ。あまり周りのことは気にならない」。研究仲間から「うどんのような神経」とからかわれたことも。しかし、鈍感さは、ときに強さにもなる。異端の研究だった制御性T細胞の存在を確信し、発見につなげたのは、周囲の評価や環境に振り回されることなく、集中力を保ち続けることができたからだろう。
趣味は美術館巡り。学会で海外に出張したときは、時間をかけてじっくり見る。そこで感じ取るのは時代の流れだ。
「絵画は印象派や宗教画など、時代によって物の見方は変わる。新しいものは最初は批判されるが、そのうちそれが常識になり、また次の見方が出てくる。サイエンスと似ている。真実は時代ごとにある」
レオナルド・ダビンチの「見るを知る」という言葉が好きだ。「見えないものが見えるようになる、あるいは皆が同じものを見ていても、違う意味付けができる。そこに喜びがある」。自身の研究人生への思いでもある。
基本に返る
好きな言葉は「素心(そしん)」。本心や飾らない心といった意味だ。「いつでも基本に返るということ。目に見えることが全てなので、変にいじるのではなく、素直に考える」と穏やかに話す。
食べ物の好き嫌いは特にないが、40代になってから、クッキーなどバターの入った食品を食べると、アレルギー症状が出るようになった。そんな経験もあって、現代人が免疫力を鍛える必要性を説く。
「子供の頃、クラスに花粉症の子はほとんどいなかった。今や研究室の学生も、多くが花粉症になっている。現代人は清潔過ぎるくらい、清潔な環境で暮らしている。最近50年のアレルギー疾患の増加は、遺伝子が変わったのではなく、免疫力が鍛えられなくなっていることが影響しているのではないか」
哲学に関心 二律背反に神秘性
自身の性格について「哲学的なことが好き」と話す。父は京都大で西洋哲学を学び、自分も高校時代は哲学や文学に関心があったが、親は理科系に進学するよう勧めた。
「理科系の方が手に職をつけられるので、苦労しなくて済むと思ったのでしょう。そこで妥協点をとって、精神科の医者になろうと思った。それなら親も文句を言うまいと。京大の精神科は実存分析など哲学的なこともやっていたので、行くことにした」
京大医学部に進学後、自然科学への関心は強まったが、哲学的な思索が途絶えることはなかった。
「血液は傷ができると出血して、そこで固まる必要がある。しかし血管の中で固まったら病気になってしまう。固まる、固まらないという二律背反的な現象の後ろに生物学的な神秘があると漠然と考えていた」
免疫は自分自身の体は攻撃せず、侵入してきた病原体は攻撃する巧妙な仕掛けを持つ。「自己」と「非自己」の認識を両立させる点で二律背反の側面がある。「それが免疫学への興味につながった」と振り返る。
研究生活を送るようになっても、ギリシャ哲学の田中美知太郎の本をときどき読む。「ものの考え方を学ぶという意味で好きだ」。物理学者で哲学的な考察でも知られる渡辺慧(さとし)の著書も好きだという。
ノーベル生理学・医学賞を受賞した坂口志文さんが発見した制御性T細胞は近年、病気の治療に応用する研究が世界的に進んでいる。実用化への期待が最も大きいのは、がん治療への応用だ。坂口氏によると、がんが生じると周囲で炎症や免疫反応が起きるため、これを抑えようとして制御性T細胞がたくさん集まってくる。免疫細胞は異物と認識して攻撃を仕掛けるが、周囲に制御性T細胞が集まっているため、攻撃力は抑えられてしまう。
そこで制御性T細胞を減らすことで、がん細胞を無防備な状態にして、やっつける薬が期待されている。国内では令和4年から、がん組織に入り込んだ制御性T細胞を標的とする抗体薬の臨床試験が始まった。海外でも複数の製薬企業が開発を進めている。
坂口氏は「がん免疫療法薬で効果がある人は現在30%程度だが、作用が異なるさまざまな治療法を組み合わせることで、近い将来50~60%の人を治せるようにしたい」と話す。
他人の臓器を移植したときに生じる拒絶反応を抑える臨床研究が欧米を中心に進んでいる。
移植臓器への拒絶反応は現在、免疫抑制剤で抑えている。しかしこの薬は人の免疫全体を抑えてしまうため、細菌などに対する免疫力も低下して感染症を起こしやすくなる欠点がある。
制御性T細胞は特定の異物だけを認識して反応する性質があり、移植臓器への拒絶反応だけを抑える効果が期待できる。
免疫細胞が自分自身を攻撃してしまう自己免疫疾患も治療できる可能性がある。インスリンを作る膵臓(すいぞう)の細胞が破壊される1型糖尿病の患者を対象に、制御性T細胞を刺激したり、増やしたりして治療する臨床研究が欧米で行われている。
坂口氏は国内外の研究チームと共同で、特定の異物を攻撃するリンパ球を患者から採取し、制御性T細胞に変換して患者に戻す細胞療法を開発中だ。これにより自己免疫性の肝臓病や重い皮膚病の治療を目指す。
坂口氏は「免疫反応は強すぎても弱すぎても困る。制御性T細胞によって免疫力を簡単に上げ下げして、がんやアレルギーなどの治療に応用できれば理想的な医療になるだろう。それが将来の目標だ」と話している。
免疫は大別して2種
免疫は生物が本来的に備えている「自然免疫」と、細菌などの異物が体内に侵入することで後天的に得られる「獲得免疫」に大別される。後者の主役はT細胞というリンパ球で、坂口さんが発見した制御性T細胞はその一種だ。
獲得免疫は多くの種類の細胞が関係しており、ネットワークのような複雑な仕組みで成り立っている。まず細菌やがん細胞などの異物を樹状細胞が察知し、その情報を司令塔のヘルパーT細胞に伝える。するとB細胞とキラーT細胞に異物への攻撃指令が出る。
B細胞は抗体と呼ばれるタンパク質を作って異物を攻撃する。キラーT細胞は異物を直接攻撃して殺してしまう。こうした攻撃が行き過ぎたり、自分自身の正常な細胞を殺したりすることがないように、樹状細胞に信号を送り、攻撃指令を抑制して調整するのが制御性T細胞の役割だ。
制御性T細胞は意外なところでも活躍している。胎児は遺伝子の半分を父親からもらうため、母親にとっては異物だ。そのままだと免疫による拒絶反応が起きてしまうため、妊娠中は制御性T細胞が増加し、胎児への攻撃を防いでいる。
また、一般に善玉菌と呼ばれる腸内細菌には制御性T細胞を増やす働きを持つものが知られており、同細胞を通じて腸炎やアレルギー反応の抑制など免疫システムに影響を与えている。
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